昭和四十七年六月十四日 朝の御理解
X御理解 第六十四節 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて 遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しの ぎをするようになれ。」
六十四節は身凌ぎをするようになれというところが、願目だと思いますねえ。身凌ぎが出来るような信心、ここのところをいろいろに説かれてきましたが、今日は少し違った角度から、この身凌ぎという事を聞いて頂きたいと思う。
身凌ぎという事は、自分の事は自分で出来るようにという事なんですねえ。お取次を頂いて、お願いをする。そんなら、いろいろの心配事のお願いをする。どんな心配事であっても、お取次頂いたら、これで安心が出来たと心が例えば、穏やかでなかっても、お取次を頂いたら、心が穏やかになったというところまで、ひとつ信心をさせて頂きお取次の働きという事を、そこまで信じれれる信心、これが身凌ぎだと思いますねえ。どんなに不安であっても、心配であっても、親先生、かくかくですと言うてお取次を頂いたら、はいはいと言うて下さった。途端に心が安らいだ。心配の事をお取次を願わしてもらったら、かく御理解を頂いたら、御理解を頂いておるうちに、ああ、そうだったと分からせて頂いて、心配が消えたと。
これは例えば、昨日の御理解に神は声もなし、形も見えず、疑えば限りなし、恐るべし疑いを去れよ、という御教えにもとずいて頂きましたね。
それをお互いの心の中にある神様を信じておるというても、確かに信じておる。けれども、厳密に自分の心というものを、顕微鏡で眺めるような気持ちで見らせて頂くとです、そこに例えば、不安があったり、心配があったり、腹が立ったり、イライラしたりするという事は、神様を信じていない証拠なんだと。いうなら疑うておる証拠なのだと。神様を信じきっておったら、不安もなければ心配もない。腹立ちも勿論、イライラもないはずなんだと。
ところが事実はイライラやら、腹立ちやら、心配不安があるという事は、まだ神様をこれだけ信じる事が出来んでおる自分だと。疑えば限りない恐るべしと。
恐るべしという事は、そういう心、神様を信じきる事の出来ないといろから、起きてくる腹立ちとか不安とか、といったそれが恐ろしいのだと。それが頂けるおかげも頂けんのだというような御理解だったですねえ。
だから、もう事実そうなんです。ところが、さあ神様を、いうなら信じきっておるようであっても、絶対信というところまでいってない証拠に、不安である、心配である訳なのです。
けれどもです、だから、そんなら私でも不安になる事もあれば心配になる事もある そんなら親先生は神様は信じてござらんかというと、まあ、いうなら誰よりも信じておると私は思うのですよ。その証拠が神様から信じられておると思う位に、おかげを受けておるという事。事実がね、物語る訳ですけれどもそれでそんなら、心配は全然ないですか、不安はないですか、腹は立たんですかという事は決してない。それをそんなら、自分はこの位の事で腹が立っておるとするならですね、不安であるとするなら、いわゆる神様をまだ、本当の絶対信というところまで頂いていないというところから、一段と信心を進めていくという事。
そこでですね、そんなら、不安もある、心配もあるとそれは心配する心で信心せよとおっしゃるから、一生懸命不安だからこそ、心配だからこそ、信心もするのですけれどもです、そういう心配なら心配事をです、お取次を頂いたら、いっぺんに胸がス-ッとしたとか、もうどうにも胸におさめかねておった者が、本当に、いや反対にお礼を申し上げる事であったと、わかる位なところまでの信心を、私は身凌ぎの信心だと思いますねえ。
お取次の働きによって自分が、例えばひとつの事柄でも有難い方へ有難い方へと頂けれる。お取次を頂いたら、いよいよます々元気が出てくる方へ、自分の心が向きが変えられる。これは私はもう、身凌ぎだと思う。
昨日もある方が、お参りしてきて、まあわかりやすく言うと、ある人に裏切られたんですねえ。もう本当にこの人はとまあ思うておった人に、裏切られたもんですから穏やかじゃない訳ですねえ。その事のお届けがいろいろあったんです。そしたら御心眼に頂くのがね、たこの足、あれに吸盤がいっぱいついているでしょう。その先の方の小さいちょぼ々のところを頂くのですよ。あれは足の根元になるほど、段々吸盤が大きくなっとる。あれが吸いついたら離れんとですよねえ。ところが、ほんな先の方のところは小さいぶつぶつ位ですから、大した力はない訳なんです。
それで私がその方に申しました。とにかくね、あなた自身が魅力を欠いでおるのですよ。あなた自身があれが離れていったのではない。こちらが吸いつく程の力に欠けておるのですよ。さあ本気でひとつ神様からも魅力が感じられる、人からも魅力を感じられるあなたになる事に精進したら、いいのですよと言うたら、本当に先生そうでしたと言うてから、いっぺんでスキッとした感じです。日頃信心が出来とるからですこれは。いわゆるお取次を頂いたらです、御理解を頂いたら、ほんなこて先生、あの人がどうのこうのという段じゃありません。私自身が吸いつける力というものを欠いでおるのだ。そこにはです、ほんにそうだったと、自分の力のない事を悟らしてもらって、私が力を頂く以外にはないという元気な心がその事によって出てくるという事 まあ、この方問題がありますから、仲々こみいった問題ですけれども、そんなに簡単に自分の心がスッとする。そして自分の心の中にほんにそうだったと、元気が出てくる。だから私は身凌ぎが出来たと思う。お取次を頂いたら心に・・・・。
だからお取次を頂かんでもです、日頃頂いておる御教えを思うてみてから、ほんにここで腹を立てる段じゃなかったたいとね、わからせて頂くだけの信心こそが、身凌ぎの出来る信心です。いくら言うて聞かせても、聞かせてももう全然向こうに吸収されないと言うか、わかりよるかわかりよらんかわからんような顔をしてる人がある。 これだけの御理解を頂いてわからんですかと言いたい事がある、心配いらんですよと言うても、とにかく、心配せにゃ損をするごとしてから、心配する人がある。
これがまだ身凌ぎが出来ない時には、それが心配になるのです。昨日久留米の古賀さんが、朝鮮旅行から帰って見えられました。そしてもう開口一番、あちらへ参りましてからもう帰るまで実感しました事は、日本という国の素晴らしいお国柄でしたと本当に涙ぐんでそれを言われました。日本というところは先生、有難いところですよと。もうそこにはね、問題というものは、自分の国に住まわせて頂いておるというだけで、とけてしまって本当にこん位の事というような事が、そういう有難いお国に住まわせて頂いておるというだけでも、しかもあちらへ行ってから帰るまで、それを実感して帰りましたと。もう何よりものおみやげだったねと言うた事でした。
話を聞いてみると成程そうです、自分の心というものがね、不平不足でいっぱい、けれどもそんならある事に直面してです、こげん事でどん悔やみよっちゃ相すまん、勿体ないという心が出て、そういうおかげを頂ける事が身凌ぎです。どんなに不平不足を言わにゃんような時でもです、ああもう、本当に健康であるという事だけに、ちゃっと気がついてです、ほんにもう、健康であるというだけでも、こんなに広大なおかげを頂いておるのに、こういういらん取り越し苦労しておった、不平不足に思うておったとそれがとけたら、もう身凌ぎが出来た訳。
例えばちょっとした事でも、不平を申す心が生まれてくる。私の家内なんか御祈念に出てきますと、もう心中御祈時には眠ってよかもんのごと感じとるようです。もう頭をうつむいたら眠っとる。まあ、どうしたちと、こう思うのですねえやはり。
そのわり一生懸命の御祈念をしとる時の姿を見ると嬉しいです。これは、うちの修行生の方達の場合もそれが言えるです。そしたら昨日愛子がこんな事を言いよりましたもん。あの-、両親部屋に参りましたところが、もうほんにうちの五十枝さんばっかりは、三十年からここに来とるがあの人がコロッとまだ寝とるとを見た事がなかねと言うて、ばばさんと話よったと。そりけん愛子が側で聞いとってから、もう、ほんなこてうちのお母さんはきつかろうけん言うてコロッと横になってやすんだ事がない 三十年間も大坪家に嫁入って来てから。
その時はなにげなしに聞いとったけれどもね、今日もみんなが一生懸命御祈念しよるとに、家内はこう下うつむいておりますけどね、もう本当にうっついとる姿を、今日は拝みたい気が致しました。
私は家内に対する、つっきに行こうごたる気色が今までしょったのがです、今日は本当に私が見た事なかけんで両親が見た事ない。もうきつかけんでちょいと横になろうなんてん、五十枝さんばっかりは、もう、ほんに三十年もうちに来とるばってん、あの人がコロッと寝とるという事なんかは見た事がなかねと、父が母に話しょったという話を、昨日その話を聞いとりました。
もう、それがほんと、ちょっとでも居眠りするはず、うっつくはずだと思わせて頂いたらね、今度はそげな不平不足の心がね、反対に眠っておる姿を拝みたいような心が生まれてくる。これが身凌ぎです。
もう全ての事にですね、例えば、そんならちょこっとそんな事でと思うたりする事もあります。けれどもね、昨日の御理解から言うとそういう事を思う事は、恐るべしなんです。もうおかげの受けられない心なんです。不足を感じたり、腹を立てたり、イライラしたり、心配をしたりという事はです、もうおかげをシャットアウトしとるようなもんです。しめ切っとるようなもんです。
だからどうでも、私共がね、おかげの頂けれる状態にいつもあらなければならないかと言うてそんなら、平穏無事という時ばかりではありません。それこそ頭にカッカッきたというような時もあります。だからそういう時にです、すぐそんならお取次を頂いたら、ほんにそうだった、反対にお礼を申し上げねばならん事であったとか、又は、本当に今のそのたこのお知らせじゃないですけれども、自分が魅力を作るより他になかった。魅力の欠けておった事に気づかせて頂いて、自分が魅力を作る以外にはなかったたいとわかる。いわゆるすぐ自分がおかげの頂けれる状態に自分をひき戻す事が出来るだけの信心を、私は今日身凌ぎと聞いて頂きました。
嬉しいですね、自分の心の中に身凌ぎが出来る時、普通ならどうにも出来ない、いうならば、心のしこりなんか、御教えに触れた途端に心がとけてくる。とけてくるどころか有難うなる。
此方は参って尋ねるところがなかった。氏子おかげを受けて遠路のところを参って来るがと、遠路のところを参って来るが、どういう難儀な問題であっても、お取次を頂いたら、それは難儀というものではなかった。いうならば、それは神愛の表れであった。神様が度胸を作って下さろうとする働きでもあった。神様がより力を与えて下さろうとする働きであった。神様がとにかく、氏子可愛いという思いが、こういう姿に表れておったんだと、わからせて頂く時にです、そういうおかげの頂けれる為に、遠路のところをわざわざ参って来るのであります。
だから心配事は、持って来ておいて、ここにお供えをせずして、又心配を持って帰るというような事であっては、遠路のところをわざわざ参って来ておって何もならんという事になる。
私はこの御教えの全てがね、教祖の御教えというのは、もう必ずですどの御教えでも、おかげに直結する為に御教えがあるのです、只、詳しゅうなるといった意味じゃないです。わかってね、成程と合点がいったら、それがもう、おかげにすぐ直結するんです。だからおかげにつながらない御教えなんてもう、おおよそ御教えとしての値打はないですと私は思う。
ですから御教えを頂くという事はもう、それはおかげに直結する事なのですから、その御教えを真に有難く頂けれるおかげを頂き、遠路のところを参って来るけれどもそれを頂くのを楽しみというような信心の稽古が必要である。
それを行の上に表すところにです、必ずおかげにつながる。おかげにつながらないならば、まあだ、まあだ、頂いておる御教えというのもがこなされていないと言うか身についていない証拠ですから、そこんところを繰り返し稽古させて頂かねばなりません。信心して徳を受けてと、そういう信心が繰り返し出来ていくところから、これがお徳というもんであろうかと、普通なら、とにかく腹の立ってこたえんような事に直面してもです、もう全然腹の立つどころかお礼を申し上げたいような心。これは徳を身につけていきよる証拠です。
それでも尚且つ、厳密に言うと、神様をまだ本当に杖についていない証拠に不安である。神様をまあだ疑うておる証拠に安心が出来ないと悟らして頂いて、本気で神様を杖につかせて頂く。神を杖にいけば楽じゃとおっしゃる。楽でないならば、まあだまあだ、神様を杖についていないんだと悟らせてもらい、そこんところを極めて参りますところから、段々身凌ぎが出来るようになる。
それはね、日々の中に、もう沢山あるんです、それが人生なんです。そこを例えばお釈迦様はこの世を苦の世とおっしゃったんじゃなかろうか。苦と言やもう、苦の事ばあっかり満ち溢れているんです。その苦、苦労、難儀をです、難儀と感じずにおかげと感じさせてもらえれる。おかげを受けた時こそ、はじめて身凌ぎが出来たという事になるのじゃないでしょうか。
信心の無い人は難儀はと言うておる。それをそんなら信心のある者はおかげと頂けれる信心。いよいよ身に徳を受けて、身凌ぎをするようになれと、今日は身凌ぎという事をそういう角度から頂いた。昨日の御理解と続いたような感じが致しますねえ。 恐るべし疑いを去れよと、恐るべし、恐いという事は他にはないけれども、自分の心の中に神様を信じていないという事が恐いのだ。信じてない証拠に腹が立っておるじゃないか。不平不足を言うておるじゃないか。その不平不足を言う事が、おかげを締め出すようなものだから、成程疑う事は恐い事だと。ところが疑おうとは思うけれどもです、神様を信じておると思うけれどもです、やはり不安であり、心配である。 イライラするというようなところをです、お取次を頂いて、その心がスキッとするというおかげを頂いた時に、おかげの頂けれる状態が心に頂ける。それを今日は身凌ぎとこう言いました。
お取次を頂いたら、どんな心配事でも、スキッとするだけのお取次の働きというものを信じれれるおかげを頂ける事によって、あなたは身凌ぎが出来たと、又はうちででもそうです、ふっと自分の心の中に日頃の教えというものがです、それこそ古賀さんじゃないですけれども、朝鮮にやらして頂いて、もうあちらへ行っておる間、それを実感して、本当に日本という国柄の有難い事を、朝鮮に行ってから気づかせて頂いた。そんならこの日本に住まわせて頂いておるというだけでも有難い、尊い事なのですから、その事を感じたらね、他の不安やら心配やら、イライラやらがとれる位なおかげを頂けるはずです。
健康であるというだけでも、手足が動いておるというだけでも、目が見えておるというだけでも、耳が聞こえておるというだけでも本当に不平不足が言えるだんじゃないと、自分の心に頂けるようになったら、それは身凌ぎが出来る信心だと私は思います。しかもこれは日々繰り返し、おそらく生涯かけての事でございましょう。だからます々徳を受けていく事が出来るのです。
昨日、ある教会の御信者さんがお参りして来た。こうやって手ついとる。そして目ん玉はあっちのお供えの方ばっかりキョロキョロ見よんなさる。だからそういう信心ではおかげは頂しれません。それこそ「手はつけど目は上向くかわずかな」。
たんからびきが、こうやってしとると同じ事。もうあげなふうにして拝む人を私は時々見る事があるが、もうあれは拝んだ気がするじゃろうかと思うです。
只、ポンポンと手を打ったぎりで、こうして、こうしたぎりで、丁度たんからびきが座っとるごたる。もう本当に御教えというのもはね、おかげに直結しなければならない。だからその御教えを頂く時にはね、勿論私の顔を見て頂かないかんですがね、神様へ向かわせて頂く姿をまず作らせて頂かないと、おかげの頂けれる事を聞きのがしてしまう。
その位教祖の御教えというのは、もう全部おかげに直結するごと出来とる。だからどういう御教えでも頂いて、それを本当にそうだなあと、例えば御地内をみだりに穢すなよはおっしゃるから本気で今まで穢しよった事を、お詫びさしてもろうて清める気持ちにならして頂いて、これから御地内をみだりに穢しちゃならんぞと思うてわかったら、もうそれでおかげ頂くです。という程しに尊いものですから、それこそ、只手だけついたごたるふうで頂いたっちゃおかげにつながらないです。
どうぞ。